キジしろ文庫

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サマセット・モーム「月と六ペンス」

あらまし

 ある夕食会で出会った、冴えない男ストリックランド。ロンドンで、仕事、家庭と何不自由ない暮らしを送っていた彼がある日、忽然と行方をくらませたという。パリで再会した彼の口から真相を聞いたとき、私は耳を疑った。四十をすぎた男が、すべてを捨てて挑んだこととは―。ある天才画家の情熱の生涯を描き、正気と狂気が混在する人間の本質に迫る、歴史的大ベストセラーの新訳。(文庫本裏表紙より)

 よみおえて、おもうこと

 雑感・私見レビュー:★★★★★星5 

《以下、ネタバレを含みます。ご注意ください。》

 言わずもがなの名著です。定例の簡単なとりまとめは割愛し、よみおえて、おもうことの一端を以下に書きとめます。

(1)ストリックランド夫人やストルーヴェ夫妻

 ストリックランド夫人やストルーヴェ夫妻にあったような、常日頃の貴賓、気立ての良さ・美しさ、情の厚さ・愛他的といった、わたしたちの人格は、いったん日常社会を居心地よくしてくれている良心を取り払えば、他人を強引に引きずり込み、束縛するに至るなど、執拗な自己への愛着と保身を求め、さらには安寧や怠惰、快楽といった根深い欲求が剥き出しになる。わたしたちは、そんな矛盾(異常性)を抱えた存在なのだろうと感じます。

 それは、いずれも、同情心を買う、押し売りする、身も心も一つになるといった、他人の心をてなずけることに、狂奔するかたちで表れます。また、その際は、それぞれのもつ事情もわざわいしたかもしれません。

(見えっ張りのストリックランド夫人の場合)自作自演などの奸計をはたらくなど、良き妻としての立場や地位、世間体などを守るための、愛情否定に伴う裏切り・憎悪から表出した虚栄心

(恋愛失敗のストルーヴェ夫人の場合)自己を見失うほど性愛の欲望に魅了され、狂おしいほどのめり込んだすえ、相手の魂までも縛りつけ我が物にせんとすりかえてしまう我欲妄執

(凡才のストルーヴェの場合)平凡な家庭と平和な日常に満足し、守り続けなければならない無邪気な傲慢さと固執

(2)ストリックランド

 他方、ストリックランドはというと、おそらく、潜在意識から発せられるなどの強烈な衝動・覚醒が超常神秘の境地や深淵・混沌を窮める絶対の直感に至ったからこそ、そこに没入したのだろうと思います。なので、他人を見下し、不愉快にさせるなど、良心が支える社会を否定し、さらに愛や性といった欲望すらも嫌悪し疎ましく思い、破壊的・破滅的で放漫な人生を選択します(現実否定)。

 このように、ストリックランドは、肉体から遊離した傷だらけの悩み燃える魂(太古の、魂が自然に宿るようなまがまがしさ)のような存在となっていることから、無防備なストリックランド夫人、ストルーヴェ夫妻は容易に触発され、狂気に巻き込まれた非日常のなかで、混乱・迷走を引き起こし不幸に至ってしまいます。

 なお、ストリックランドは、文明からかけ離れた幻想的なタヒチ奥地で、献身的につくすアタとともに、現実にまみれることのない自分の居場所をみつけることができました。そして、これにより、死病にとりつかれながらも、心の眼に映った湧き起こる直観を、絵画(原始的で淫らで恐ろしさを秘めた美しさ)として表すことができました。

 さて、わたしたちは、ストリックランドのように、授けられた運命を見澄まし、現実社会とのつながりを断ち切り、自己を全うさせることは、なかなかできません。また、それに準じることもないでしょう。かと言って、絶対の神や仏の教えもなく、ストリックランドが嫌悪した社会に居場所を置けば、ストルーヴェたち同様に、つきまとう貪欲な心によって、凡庸な心身は滅ぼされかねません。

 八方ふさがりのそんな、社会のなかでの生きずらさや、うまくいかないことが多い日々のなかで、見方を変えて、ちょっとだけラクになるもの(「課題の分離」に相当)を、以下に引用します。

朝日新聞2021.12.4 著者に会いたい 逢坂冬馬さん「同志少女よ、敵を撃て」インタビュー 憎悪・差別がモザイクに からの一部引用

 手だれを感じさせる物語だが、雌伏の時期は長かった。文学賞への応募は十数年前から。クリスティー賞だけでも4回落選。励みとなったのが全作品を見るほど好きな押井守監督からのメールだった。メルマガの質問コーナーに不安を書き送ったところ、こんな趣旨の返事がきた。

<好きな小説を書く時間を長くとれるよう、作家になりたい考え方はしごくまっとうです。しかしながら実際にプロになれるかどうかは、才能だけではなくて世の中の都合だったりするので、ここはあせらず肩の力を抜いて努力しなさい>

(3)全体を通して(追記)

    ここまで、好き勝手を述べてきましたが、釈然とせず、何かが引っ掛かっていましたので、追記しました。

    それは、争いや闘いです。

    本書では、虚偽、自殺、傷心、常人には思いも至らぬ遺作に至るという結果と、好き勝手述べてきたその原因が何であれ、回避するなどの手段に訴えることもなく、みな、差し迫る困難・苦境に無自覚に反応し、潔く挑みます。

 それは、単なる設定のことだけかもしれませんが、それにしても、そもそも、ヒトとは、悪霊とともに放りこまれた監獄で、敵愾心や好戦資質を備え、さらに、その行使を平然と行える力を身に付けた根っからの戦士なのだろう、とあらためて思いました。

 (2022.01)

CM 

 最後までおつきあい頂きましてありがとうございました。

では、また!