キジしろ文庫

ミステリーや文芸小説、啓発書などの感想やレビュー、エンタメや暮らしの体験と発見をおすすめ・紹介!

ヘッセ「シッダールタ」

あらまし

 シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。
――成道後の仏陀を讃美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である。 (文庫本裏表紙より)

 よみおえて、おもうこと

 雑感・私見レビュー:★★★星3 

《以下、ネタバレを含みます。ご注意ください。》

 わたしたちは、時代や社会が無責任に無意識のうちに押しつけてきた、成長・発展・進歩といった煩悩(時間)に影響され、感化されてしまっているのでしょう。なので、職場や学校での役柄を演じ、日常の惰性に浸りきり、自我の本質への気づきや顧みることも、及ぶことも少ないのでしょう(喪失)。

 他方、災害や不幸の際の慰め・哀れみ・助け合い、良縁や出生の喜びなど、慈悲や慈愛の心でもある本来の自我本質は失われてはいないのだろうと思います。

 なので、むしろ、日々のなかでも、本心に正直な感得や心と心のつながり・分かち合いを見過ごさず、よくよく涵養することが大切なことでしょうし、そして、それが、矛盾した愚かしい世界をありのままに受け止め、流れに身をまかせるといった帰属感にも通じるのだろうと思いました。

 さて、本書からは、言葉や学びによる孤独な修練によっては「悟り」や「解脱」には至れず、むしろ、日常の生活や自然からの感得や体験の実践によって「真理」が得られるということ。そして、その「真理」とは、死と生、罪と聖、賢と愚などを同時に併せ持つ、矛盾した愚かしい世界をあるがまま受容し、共感し、愛おしむということ。さらに、それは、人間存在自体に価値を置き、その尊厳を求めることが大切なのだろうと思いました。

 

 さて、以下は、備忘のための簡単なとりまとめです、参考まで。

(1)自己否定(思索家としての善行)

バラモン族の才気あるシッダールタは解脱を求め、熱い意志と高い使命感を持ち奥義書や沈潜などで修練を重ねていました。しかし、シッダールタにはどこか満たされぬ思いがありました。それは、教えとは別に、世界を創造した、自我奥深くにある「真我」や「唯一なるもの」に思い及んでいたからでした。しかし、それを見出し、自分のものにした賢者は、村に誰もいなかったことから、シッダールタは、友人ゴーヴィンダとともに世間を巡礼する苦行(沙門)に出ることにしました。

・シッダールタは、厳しい苦行を続け、滅我によって、願いや夢、喜びや悩みから心をむなしくし、安らぎを見出すことで、自我ではない本質の奥底にあるものを目覚めさせようとしました。しかし、シッダールタは、自我から逃れて獣や石や水に中にとどまっても、最後は自我に帰ってしまう輪廻の苦悩を味わいます。このしばしの離脱を酒酔いに過ぎず、解脱にはほど遠く、また苦行の師も涅槃に達していないことから、シッダールタは、「真我」のためには、知ろうと・学ぼうと欲すること自体に無理があると感じました。

・そこへ現れた、無上の悟りを得、前世を記憶し、涅槃に達し、輪廻に中には戻らないと言われる仏陀のゴータマの教えを乞いに、ふたりは苦行のもとを去ります。

・友人ゴーヴィンダはゴータマに弟子入りします。しかし、シッダールタは、ゴータマの永遠の統一的な世界の法則に、解脱の教えのないことから、悟りを開いたときに心に起こったことは、言葉や教えで伝え言うことのできないものだという意を強くし、その元を立ち去ります。

・このように師や教えから離れたシッダールタは、自我の奥底の「核心」や「真我」を見出すには、自我を克服するのではないこと、目前の現象界を否定したうえで本質や意味を背後に求めるのではなく、それはその中にあるのだ(肯定)ということ、世界をそのままに見、認識し、彼岸を目指さず受け止めることと考え、そして、これまでとは異なる道へと進みます。

(2)自己肯定(小児人としての悪行体験)

・シッダールタは、外部からの借り物の知恵・知性を脱ぎ捨て、「真我」であるところの自分自身を体験すること、自身の心の声を聞き従うことだと考えつつ、町に入りました。

・その町では、美しい遊女カマーラとの愛の喜びに浸る一方で、カーマスワーミのもとで商売の腕を上げていきます。しかし、沙門道ゆえに、金や名誉のための諍いに伴う苦しみや悲しみに共感できず、子供じみた・動物じみた暮らし(児戯)をする人間を愛するともに軽蔑をもします。このように世俗や享楽に本心から関われない傍観者だったシッダールタですが、金持ちとなり、官能・歓楽・権勢にまみれるなか、時間の経過とともに沙門道の意識は薄れました。

・やがて、小児人気質を身に付けますが、それでも完全にはなりきれないことから、羨みと蔑みに伴う不快感をもち、さらに、金持ちの心である不満や苛立ち、不機嫌、怠惰や薄情さを覚え始めます。この無自覚な心の進行のうちには嘔吐感が潜み、世俗の生ぬるい気の抜けた生活への不安感に代えるため、また、富や自分への蔑みから、賭博などの金銭欲にも執着し陶酔していきました。こうした無意味な循環に、老いや疲れを生じ、嘔吐感にも襲われるようになりました。

 そして、カマーラの美しい顔にあったしわを発見したことから、歓楽が近づける疲れ・衰え・老い・死への恐怖を抱きました。そして、無価値でしかなかった生活に空しさを感じ、幸せや喜びを感じた飛躍や成長を目指した沙門道時代を振り返り、小児人とは相容れなかった遊戯の世界から脱け出しました。

(3)聖者(勧善懲悪ではなく、矛盾や愚かしさを抱える人間を愛するということ)

・シッダールタは、痴愚となって穢れ、魂を荒廃させ、腐敗させてしまった狂人となって、自殺にまで至ろうとしました。しかし、この子どもじみた迷いから、心の声が語る、霊妙な祈りの文句によって救われました。そして、これまでの回り道を肯定し、苦行に伴う自負の心が、逆に高慢となってしまい滅我を妨げたとわかりました。だから、おぼれ死のうとしたことで、女と金に耽り絶望に至る俗世に入ることでしかわからかった、高慢な小我の死を喜び、新たに出直します。

・やがて、シッダールタは、おぼれ死のうとした川の流れの声を聞きとめ、そこから学ぼうと、渡し守ヴァズデーヴァの弟子となって、そのほとりに留まりました。

・そこへ、最期の間近いゴータマをこころざそうとしたカマーラがその遍歴の最中に亡くなり、残された息子をシッダールタは、引き取り育てます。

・甘やかされ贅沢に育てられた息子は、反抗的な心をシッダールタに示します。シッダールタは、息子を愛していたことから、息子の心を得ようと堪え待ちます。他方、その情愛による縛り(堕落に伴う苦痛や失望をさせたくない)が、若い息子を苦しめていました。そして、シッダールタは、心を失わせる、盲目的な情愛である煩悩に悩みます。しかし、息子の言いなり・ご機嫌取りをするシッダールタへ、息子は、父の信心と寛大さといった押し付けを憎み、そして、町へ出ていってしまいます。これにより、シッダールタは、息子への執着による傷とともに空虚を感じることで、小児人など他者の盲目的なはてしない本能や欲望、所業への共感がもつことができ、愛し讃嘆できるようになりました。

・しかし、子供への未練が絶ち切れないシッダールタは、流れゆく川から聞こえる喜び・悩み、笑い・悲しみ、目標・憧れ・悩み・快感・善と悪すべてがいっしょになった現象の流れ全体からなる「完全」を聞きとることで、自らの自我も流れ込みました。

P175 このときシッダールタは、運命と戦うことをやめ、悩むことをやめた。彼の前には悟りの明朗さが花を開いた。いかなる意志ももはや逆らわない悟り、完成を知り、現象の流れ、生命の流れと一致した悟り、ともに悩み、ともに楽しみ、流れに身をゆだね、統一に帰属する悟りだった。

・最後に、近くを訪れた友人ゴーヴィンダとの面会の中で、シッダールタは、悟りについて話しました。それは、時間を否定し、自我を滅却した心の奥底に見出した「真我」や「唯一なるもの」とは、死と生、罪と聖、賢と愚などを同時に併せ持つ、矛盾した愚かしい世界をあるがまま受容し、共感し、愛おしむことだということでした。

P181 「(前略)それこそ私の最上の思想なのだ。それは、あらゆる真理についてその反対も同様に真実だということだ!つまり、一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだ。思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。(中略)だが、世界はそのものは、われわれの周囲と内部に存在するものは、決して一面的ではない。人間あるいは行為が、全面的に輪廻であるか、全面的に涅槃である、ということは決してない。人間は全面的に神聖であるか、全面的に罪にけがれている、ということは決してない。そう見えるのは、時間が実在するものだという迷いにとらわれているからだ。時間は実在しない。ゴーヴィンダよ、私はそのことを実にたびたび経験した。時間が実在でないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、悪と善の間に存するように見えるわずかな隔たりも一つの迷いに過ぎないのだ」

P182 「(前略)私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びとはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえに過ぎない!罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるよりほか仕方がないとはいえ。ーいや、罪びとの中に、今、今日すでに未来の仏陀がいるのだ。彼の未来はすべてすでにそこにある。おん身は罪びとの中に、おん身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンダよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。あらゆる幼な子はすでに老人をみずからの中に持っている。あらゆる乳のみ子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている。いかなる人間にも、他人がどこまで進んでいるを見ることは不可能である。強盗やばくち打ちの中で仏陀が待っており、バラモンの中で強盗が待っている。深い瞑想の中に、時間を止揚し、いっさいの存在した生命、存在する生命、存在するであろう生命を同時的なものと見る可能性がある。そこではすべてが良く、完全で、梵である。それゆえ、存在するものは、私にはよいと見える。死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。いっさいはそうなければならない。いっさいはただ私の賛意、私の好意、愛のこもった同意を必要とするだけだ。そうすれば、いっさいは私にとってよくなり、私をそこなうことは決してありえない。抵抗を放棄することを学ぶためには、世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較することはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。(後略)」

P186 「(前略)ーそれは物だ。物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。(中略)解脱も徳も、輪廻も涅槃も単なることばにすぎないからだ。ゴーヴィンダよ。涅槃であるような物は存在しない。涅槃ということばが存在するばかりだ」

P187 「(前略)物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。物は私の同類だということ、それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。この教えにはおん身は笑うことだろうが、愛こそ、おおゴーヴィンダよ、いっさいの中で主要なものである、と私には思われる。世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と讃嘆と畏敬をもってながめうることである」

 (2022.05)

CM 

 最後までおつきあい頂きましてありがとうございました。

では、また!